
衝撃の配属発表から一夜明け、「仕事」が始まった
最初はとにかく職場に慣れること。
そして、周りに迷惑をかけないようにと意識しながら仕事に取り組み始めた。
職場環境は申し分なかった。
残業もほとんどなく、周りの方々も本当に良い方たちばかり。
あとから知ったのだが、どうやら工場経理部に新人が配属されるのは相当久しぶりだったらしい。
「まずはマザー工場で現場を理解してから本社へ」という流れだったのかもしれない。
簿記1級を持っていた僕に、少し期待してくれていたのかもしれない。
そう思うと、少し申し訳ない気持ちになる。
しかしそんなことを知る由もない当時の僕はというと、ほどなくして車が解禁になったため即購入。
週末になれば毎週車をかっ飛ばして東京に行くという生活を始めていた。
金曜の夜に東京へ向かい、日曜の夜に福島に帰る。
日曜夜の真っ暗な常磐道を走る時間は、流石に心に堪えた。
また、残念ながら、仕事内容自体もあまり興味を持てなかった。
少し専門的な話になるけれど、僕は「一般的な会社の経理」が好きで、
いわゆる“管理会計”はあまり好きではなかった。
「この仕事をあと何年続けるんやろうか…」
「いつになったら本社の経理が出来るんやろうか…」
「そもそもこんな生活、長くは続かんぞ…」
心はそう訴えていた。
訪れた限界と、転勤のない人生を求めて
そんな生活を数ヶ月続けた頃、ついに体が限界を迎えた。
顔一面に帯状疱疹が出て、入院することになってしまった。
ストレスが原因だった。
仕事内容も、勤務地も──すべてが積み重なっていたのだと思う。
「ああ、限界来てるんやな」
そう悟った。
この頃の記憶はあいまいだけど、関西から親が駆けつけてくれた。
顔の半分が長期間麻痺していたことを覚えている。
退院後、しばらく休みをもらい、実家で療養することにした。
顔の麻痺が治らなければどうにもならない。
まずはそこを最優先にしながら、今後のことを考えた。
仮に治ったとしても、また福島に戻ったら再発するかもしれない。
そう考えると、福島で仕事を続けるのは僕にとってもう現実的じゃなかった。
そしてなぜか、一度は「地方公務員」を目指すことにして、TACの通信講座に申し込んだ笑
理由は二つ。
転勤がないから。
安定しているから
思えば公認会計士を目指していた時も、簿記が好きだったという理由だけじゃなかった。
「手に職があれば、安定した転勤のない人生が送れるかもしれん」──
それは、転勤族だった父親の姿を見てきたこと、
そして「転勤のない仕事がいいよ」と言い続けていた母親の影響も大きかったと思う。
…が、地方公務員は速攻で諦めた。
なぜって、試験に受かる気がまったくしなかったから笑
中高とろくに勉強せず、更に大学受験もしていない自分が、いまさら大学受験のような勉強をするのは無理だった。
転職を決意
じゃあ、どうする?
──転職しかなかった。
ただ、社会人1年目を終えたばかり。しかも半年は研修、その後は体調も崩す始末。
そんな僕を雇ってくれる会社なんてあるのか…?
それでも、動かなければ何も変わらない。
帯状疱疹が治り、一旦は福島に戻ることにした。
そして、戻ったら転職活動を始めようと決めていた。
職場の方々は、そんな僕を温かく迎えてくれた。
それが逆に苦しかった。
申し訳なさを感じながら、それでも僕は転職活動を始めた。
東京・代官山、ベンチャー企業との出会い
転職サイトに登録し、紹介された会社のうちのひとつが、創業3年目のベンチャー企業だった。
場所は代官山。オフィスは超おしゃれで、キラキラした雰囲気が漂っていた。
「いや〜今の僕みたいな人間、こんなとこに採用されるわけないよなぁ…」
そう思いながらも、せっかくのチャンスだし行動あるのみ。
久々にスーツを着て、東京へ面接を受けに行った。
当初は一次面接だけの予定だったが、採用担当の方に気に入っていただき、
そのまま二次面接、社長面接まで一気に実施。
そして──
結果は、内定。
え?まじで?こんなことある?
衝撃だった。
「レール」を降りる決断
この内定を受ければ、福島を離れ、代官山での新生活が始まる。
僕は、その場で入社の意思を伝えた。
帰り道、代官山駅に向かう途中で、親に電話をした。
親はきっと、複雑だったと思う。
昭和的な価値観で言えば、子どもを上場企業に就職させることは「成功」。
「このまま定年まで勤め上げてくれたら」と思っていたはず。
でも現実は、地方配属で体調を崩し、
1年でその会社を辞め、創業3年目のベンチャーに転職しようとしている。
この決断を後押ししていいのか。
「石の上にも3年」──もう少し我慢させるべきなのか。
きっと、迷ったと思う。
でも、僕の中ではもう決まっていた。
一度狂った人生の歯車を、もう一度動かしたかった。
2013年6月、退職
正式に内定通知を頂いたあと、僕は会社に退職を伝えた。
部長には「1年で辞めるなんて」と叱られたし、
先輩たちにも「そんなベンチャー行って大丈夫なのか」と心配された。
それでも、もう心は決まっていた。
退職が正式に認められ、2013年6月。
僕は1社目の会社を離れた。
在籍期間は1年と3か月。
ゴルフクラブをくれた職場の方がいた。
連絡先を渡してくれた先輩もいた。
あたたかくしてくれていた方々に対し、申し訳なさがなかったわけじゃない。
それでも、僕はまず「自分の気持ちに正直に生きたい」と思った。
──この日を境に、僕はレールから外れる決断をした。
そしてここから、僕の新たな“13年の旅”が始まった──。


